閑人の「戯れ言」

気に入ったことは勿論ながら、気に入らないことも思いついたままに・・・・・・・

教会での礼拝後・・・スライドを見て

 

(先般来からアップしている記事の続編。

 余り、歓迎されない話題である事を承知しつつ・・・)

 

日本キリスト教団三里塚教会」での日曜礼拝のあとに

スライドで
  「三里塚教会に行こう」
   戸村一作生誕100年記念
        戸村一作とは?


を、見た。


私の知識では、
戸村一作(1909~1979)は「三里塚芝山連合空港反対同盟」の
委員長だったと言う事。
大いに活動し「国」にとってはとても厄介な人物であった事。
然し、既に亡くなっていると言う事。
等々、成田空港に少しでも関心がある人であれば、誰でもが知っている
で有ろう概略的な知識しか持ち合わせていなかった。

 

けれども、スライドを見て・・・・
彼はクリスチャン(宗教者)、芸術家(鉄を使って立体制作。
二科展(会友)等に出品・・・作品は教会敷地に今も遺されている)。
そして、農機具製造者として平穏な生活をしていたのです。


そもそも、
空港候補用地は反対運動により転々と変更を繰り返し、現在の場所に
閣議決定した後、当事者たる農民に対する説明も無しで進めたと言います。
また、空港候補地は「御料地(江戸時代から明治になった時に御料地と
なった)だから、民有地の被害は少ない」と言われましたが、実際は
御料地は40%弱でした。
既に、反対運動が始まっていたから、既成事実を積み重ねる事を急いだ
のでしょう。
現在の、沖縄と同じ構造です。


何れにしても、当事者に対する説明も無く、代替地の準備もなしに
進められた構想。
その様ななかで、国家権力による激しい実力行使、問答無用と言った
政府の対応が為された事により、反対運動がこれに対抗する形で必然的
な結果として、エスカレートせざるを得なくなったのだと思います。


戸村一作は1968年2月26日の空港反対集会で、警棒を振りかざし
追いかける機動隊から逃げる学生がつまずいて倒れた時、自らが身を
乗り出してかばったそうです。
この時、彼自身が機動隊員四、五名に取り囲まれ、「ヘルメットをはぎ
取られ、頭部などを滅多打ちにされて重傷」を負い入院。
彼は委員長でしたから、機動隊員は十分承知した上での暴力行為です。
この様な事実も、国家権力に対する更なる抵抗主義へかきたてた原因に
なったと言います。

 

併せて、当時の時代背景。
つまり過激な学生運動が、農民による反対運動に連動した事も
重要な事だと思います。
当事者たる農民達が空港建設反対運動をしたのは、開墾から始めた
農地を、国家によって無理矢理取り上げられる事に対する反対。
これが基本的に根底に有る筈です。
けれども、学生運動が重なる事により、この一番本質的な部分を見え
にくく、或いはぼやけさせたとも言えるのでは無いでしょうか。


その様な感を改めて持ちました。
いみじくも、町を歩いている時に話しかけた土地の人が、ふと言い
ました。
「(当時の)学生達は、今、日本社会の中枢で、何事も無かった様に
働いているよね」と。


飛行場敷地に取り囲まれた農家が今も存在し、この空港が現在に至るも
完全な形態を保っていない等の事実も抑えておかねばならないと思い
ました。


改めて、私は何かとても重要な課題を突きつけられた様な感覚に
なっています。